MASAHITO UEDA
Department of Physics, The University of Tokyo

雑 記

量子物理学の新たな時代の幕開け(岩波書店『科学』10月号,2006年)

量子論はトランジスタ、レーザー、GPS(衛星利用測位システム)など現代文明を支えるハイテク技術の根幹をなす基礎理論であり、以下で述べるようにその論理構造はシンプルでかつ美しい。その上、ミクロからマクロな世界に及ぶ自然の普遍性と多様性が量子論によって統一的に理解できることには深い感動を覚えずにはいられない。

量子論は、アインシュタインード・ブロイの関係式により粒子性と波動性を統一する学問である。アインインシュタインード・ブロイの関係式とは、エネルギー Eと波の振動数 ν がE=hν、運動量 pと波数 k が p=hk/2πという等式で結ばれていることをいう。ここで、hはプランク定数と呼ばれる普遍定数である。これらの式の左辺は粒子性、右辺が波動性を特徴づける量であり、一方がわかれば他方がわかる。量子論が誕生する以前は、粒子の状態を特徴づける物理量の組 (E,p) と波の状態を特徴づける物理量の組 (ν,k)はお互いに無関係な量であったが、アインシュタインとド・ブロイは両者がコインの表裏のように本質的に同じ情報を持っていることを喝破した。これが、粒子―波動二重性の意味である。アインシュタインード・ブロイの関係式から運動量が位置に関する微分演算子で与えられることや、エネルギーが時間の微分で与えられることが導かれ、そこからハイゼンベルグの不確定性関係やシュレーディンガー方程式が導かれる(2)。粒子―波動二重性の重要な帰結として、古典的には波であった光も古典的には粒子であった電子や原子もヤングの干渉実験を行うと、まったく同じ干渉パターンが得られる。すなわち、二重スリットの後方のスクリーン上には粒子としての輝点が一個一個ランダムな場所に観測されるが、それらを積算すると輝点の集合として波としての干渉縞が現れる。このことから、波動関数はランダムに現れる事象の確率分布に関連する量であることがわかる。我々が量子力学から得られるすべての情報は波動関数で記述されるので、測定結果は確率的にしかわからない。古典的(ニュートン力学的)世界では確率現象は我々が原理的には知りうる情報を不完全にしか持っていないために生じるものであるが、量子論では、粒子性と波動性を統一した代償として未来が確率的にしか予言できない。このように、量子論は我々の存在哲学に根本的な転換を強いる。量子計算や量子暗号は量子論特有の確率的性質を巧みに利用している。例えば、量子暗号では、送信者の送った情報を盗聴者が観測すると波束の収縮が起こり状態が不可避に変化してしまうので、送信者と受信者はその差をチェックすることで盗聴の有無をチェックできる(2)

ヤングの実験では、光子も電子も原子も同じような干渉パターンが現れ区別がつかないが、それでは、自然の多様性はどこから現れるのだろうか。それは、粒子が2個以上同時に存在する場合に現れる相互作用と量子統計性の結果である。これらのうち、粒子間に働く相互作用は古典論の世界でも存在するので、ここでは後者について述べる。量子統計を支配する原理は、同種粒子の識別不可能性の原理である。いま、同種粒子を2個考え、それらの波動関数をψ(x,y)と書こう。ここで、x, yは粒子の状態を表す変数で位置と考えてもよいし運動量と考えてもよい。粒子を入れ替えた波動関数はψ(y,x)と書ける。両者が識別不可能な同じ状態を記述している条件は、c を絶対値の大きさが1の定数としてψ(x,y)=c ψ(y,x)が成立することである。再び粒子粒子を入れ替えると、ψ(y,x)= c2ψ(x,y) となるので、c =±1 でなければならない。こうして同種粒子の統計性は、c = 1 の場合と c = -1 の場合の2種類に大別できることがわかる。前者をボース統計、後者をフェルミ統計という。光子はボース統計に従うボース粒子、電子、陽子、中性子はフェルミ統計に従うフェルミ粒子である。フェルミ粒子の場合はψ(x,y)=-ψ(y,x) なので、y=x とおくと、ψ(x,x)=0 が得られる。これは、フェルミ粒子は同じ状態に2個以上の粒子を詰めることはできないことを意味している。これをパウリの排他原理という。他方、ボース粒子の場合は、同じ状態を占有できる粒子数に関する制約は無い。一般に原子は、多数の電子、陽子、中性子からなる。同種原子を入れ替えると、原子に含まれる電子、陽子、中性子などのフェルミ粒子が一度に入れ替わり、フェルミ粒子を一個入れ替えるごとに波動関数にマイナス1が掛けられるので、偶数子のフェルミ粒子を含む原子はボース粒子、奇数個のときはフェルミ粒子であることがわかる。

フェルミ粒子は、エネルギーの低い状態から一個ずつ粒子が入るので、粒子数がアボガドロ数のようにマクロな量になると、最もエネルギーの高い粒子の速度は桁違いに速くなる。例えば、金属中の電子のうち最も速度の早いものは秒速1000kmに達する。一方、ボース粒子は、一つの状態を占める粒子数に制限が無いために、多数の粒子を同じ量子状態に詰めることで、ミクロな量子の性質をマクロなスケールに増幅することができる。これをボース・アインシュタイン凝縮(Bose-Einstein condensation, BEC)という。BECの典型例は、レーザー光であり莫大な数の光子を同じ振動数、波数、偏光状態に凝縮させた状態となっている。質量数が4の液体ヘリウムを2.17ケルビン以下に冷やすとアボガドロ数の原子が波数が同じ量子状態に凝縮する。これがヘリウムの超流動である。電子はフェルミ粒子なのでそのままではBECとはならないが、電子2個で対を作ることでボース粒子として振る舞い、BECを起こすことができる。これが超伝導の本質である。

1980年代以降、レーザーを使って原子を冷却するレーザー冷却の技術(1)が目覚しい進歩を遂げている。レーザーというと通常は、レーザーメスのように強力な光で物を熱して切断することを想像しがちだが、光も原子も量子力学にしたがっていることを巧みに利用することで絶対零度に近い温度まで原子冷却することができる(1)(3)。レーザーは原子を冷却するだけではなく、冷却された原子をトラップすることもできる。2本のレーザー光を対向させると電場が空間的に波打つ定在波ができるがそれが原子にとって空間的に振動するポテンシャルを作る。4本のレーザー光を前後、左右から2次元的に対抗させると2次元的な定在波ができるし、それに上下方向からもレーザーを照射して3次元的にすると3次元格子状のポテンシャルができる。これらを光格子という。光格子に冷却されたフェルミ粒子を閉じ込めることにより、固体結晶中の電子と同様な状況が再現できる。固体との違いは、レーザー光の波長と強度を変化させることによって格子間隔やポテンシャルの深さを自由に制御できることである。また、フェッシュバッハ効果(3)と呼ばれる効果を用いることで原子間相互作用の強さと符号(引力か斥力か)を制御することができる。これまで固体にとっての光は、その性質を調べたり制御したりするために使われてきたが、いまや、光だけでで完全結晶ができるようになった。このあたらしいツールを用いることにより、格子定数やキャリアー間の相互作用の強さなど物質を特徴づけるパラメータを連続的に変化さえる手段を用いて高温超伝導など固体物理の大問題や物質科学の未踏の領域が探索できるようになりつつある。

数十年後から現在の状況を振り返ると、現在は量子物理学のパラダイムシフトの時代であると位置づけられるだろう。それは、非局所性やエンタングルメントのような量子論の奇妙な性質を単に受け入れるだけではなく、それらを量子計算や暗号などの古典的には不可能な夢を実現するデバイス原理として積極的に応用する時代への転換として。一方では、レーザーを用いた計測および制御技術が画期的に進歩した結果、固体物性のような大規模量子系を実験的にシュミレートできる時代への転換として。量子論が発見されて100年が経過したが、このような科学技術上の画期的な進歩によって現在は量子物理学の新たな時代の幕開けの時代といえるのではないだろうか。

(1) 勝本信吾 レーザー冷却が開く原子波の世界、丸善 (2003)
(2) 上田正仁 現代量子物理学―基礎と応用、培風館 (2004)
(3) ぺシィック スミス ボーズ・アインシュタイン凝縮 吉岡書店 (2005)